能面はさまざまな表情が組み合わされていることを解明

 

ポイント

Ø       「無表情の代名詞」とされる能面は、上演中にさまざまな表情を表すのはなぜなのか

Ø       能面は顔の各パーツが同時に異なる情動を表現している「情動キメラ」

Ø       伝統芸能の「美」を科学的に分析する端緒となる研究といえる

 

わたしたちは、古典芸能で使う「能面」が多様な表情を見る側に想起させるのは、能面の各顔パーツが異なる情動を表現している「情動キメラ」(注1)であることが原因であり、こうした「情動キメラ」からの表情判断は、主に口の形状に基づいてなされることを示しました。

もともと能では、喜びを表す動作を「照らす」、悲しみを表す動作を「曇らす」と呼び、面(おもて)をそれぞれ上向き、下向きに傾けます。しかし、能に親しんでいない大学生に能面の表情を評定させると情動を逆に判断してしまうことがわたしたちの先行研究からわかっています。

こうした伝統的解釈と矛盾する現象がなぜ起きたのでしょうか。本研究グループでは、コンピュータ画面上で眉・目・口の組み合わせを変えてさまざま能面を作り出して評定させたところ、上下方向に傾けられた能面は、眉・目・口がそれぞれ異なる表情を表出しており、キメラ的な複合表情を持つこと、および口の形状が表情の情動認知に最も重要な診断的特徴であることが示唆されました。さらに、能面が下を向いたとき(悲しみを表現しているとされる)の口を持つ面は一貫して喜んでいると判断されました。

日本人は表情を判断する際に口をあまり見ないことが知られています。能の上演中には顔を俯け顔に影が差すという「悲しみの表情」に加えて控えめに「喜び」の口元が見え隠れすることが、解釈の揺れを生み出してミステリアスな表情を作り出しています。こうした伝達すべき情動とは逆の要素を忍ばせる「情動キメラ」というべき手法が、世阿弥が考えた幽玄の世界を表現していると考えられます。「美」を司る文化的な要因は、その社会でくらす人々の心理学的な要因をも考慮したものであることが、こうした科学的な分析によってより詳しく示すことができるのではないでしょうか。

従来、西洋美術を科学的に分析するという試みはなされてきましたが、本研究は日本の伝統芸能を科学的に分析するという道を拓くものであると考えます。

本研究の成果は、2012年11月21日(米国東部時間)発行のオンライン科学誌「PLoS ONE」に掲載されました。
<研究の背景と経緯>

 情動研究において、表情認知は重要な分野であり、そのメカニズムの解明は多くの研究者によって行われてきた。日本の伝統芸能である「能」で用いられる「面(おもて)」は、古くから「能面のような」という言葉で知られるように「無表情」の代名詞とされてきた。しかし、実際に上演される能の舞台では、木彫りの面であり形状が変化しないはずの能面が様々な表情をしているように見える。表情がないはずの能面から表情を読み取るのはどのようなメカニズムなのか。能面を使った表情認知メカニズムの研究は、表情認知の根源を探るのに適しているといえよう。

能の世界においては、能面を上下方向に傾かせることで表情を変化させている。「喜び」を表現する時には能面をわずかに上に傾かせ(能の世界ではこの所作を「照らす」と呼ぶ)、「悲しみ」を表現する時には能面を下に傾かせる(同様に「曇らす」と呼ぶ)。

ところがこれまでに,上下方向に傾きを変化させて能面の印象を評価させた研究で,上向きの能面は「悲しみ」と判断される割合が高く,下向きの能面は「喜び」と判断される割合が高いことが示されている(Lyons et al., 2000; 西村・岡ノ谷・川合,2010)。この結果は,能における能面の傾きとその能面が表現する表情との定義に反するものである。では,上下方向に傾きを変えた能面は,何の表情を示しているのか?

本研究では,上方向・下方向に傾けられた能面の表情と,喜び・悲しみの表情に共通点があるか否かを検討した。

 

<研究の内容>

 本研究では、日本人大学生を対象に、能動的な表情作成と受動的な表情判断という両方の実験場面で、能面師倉林朗氏が作成した能面「小面」の情動認知を検討した。「小面」というのは,女面のひとつであり,若く清純な美しさを表現した面である。

 

 実験1では、能面の表情作成を行った。14名の参加者が、表情作成ソフトウェアFaceTool(注2)を用いて、喜び、悲しみ能面の表情を作成、および上向き、下向き能面の表情を模倣した(図1)。その結果、上向き能面では、眉および口の特徴は悲しみ表情と共通しており、目の特徴は喜び表情と共通していた。下向き能面では、これらが全体に逆転傾向にあった。すなわち、上下方向に傾けられた能面は、眉・目・口がそれぞれ異なる表情を表出しており、キメラ的な複合表情を持つことが示唆された(図2)。

 

 実験2では、能面の表情判断を行った。63名の参加者が、上向きおよび下向き能面の眉・目・口をそれぞれ合成した8種類の能面顔(図3)を、喜び、悲しみの2者択一で判断した。その結果、上向き、下向き能面の口を持つ顔をそれぞれ悲しみ、喜びと評定する傾向が顕著にみられた。すなわち、眉,目,口がそれぞれ異なる情動を表出している場合、口が表情認知に最も重要な診断的特徴であることが示唆された。

本研究で得られた知見は, Lyons et al. (2000) ,西村他(2010),の結果を整合的に解釈する。彼らの結果は,上方向に傾けられた能面は「悲しみ」と評定され,下方向に傾けられた能面は「喜び」と評定されるというものであった。この結果は,能の世界における,「能面の傾きとその能面が表現する表情」の定義とは反するものであった。しかし,本研究は,能面を表情刺激呈示として使用した場合、顔のパーツによって異なる刺激を提示する「情動キメラ」となっており、そうした「情動キメラ」から表情を読み取るときには、口の形に基づいて,その表情が判断されることを明らかにした。

 表情を判断する実験では、こうした「情動キメラ」刺激を用いることはなかったため、能面を使うというアイディアが、新たな表情知覚認知メカニズムを明らかにすることにつながったといえる。

 

<今後の展開>

能面が下を向くと口角があがります。口角が上がった顔というのは一般的には笑顔のように見えます。しかし、能面が下を向くというのは「悲しみ」の表現であるわけです。この矛盾点の解明から、能の美が総合的な藝術として、視覚、聴覚などに訴えかけているというだけではなく、その中に心理学的な「仕掛け」「揺さぶり」を込めることで、より微妙な感情表現を施しているのではないかという「美の解明」へのヒントを与えてくれることになりました。

日本人は表情を見るときに口元を見ないとこれまでの研究では言われてきました。下向きの能面の口元が笑顔のようになるということは、能の場面では悲しみを表現する動作(曇らす)の中で、あえてあまり見られないであろう口では逆の感情を示す笑顔を提示しているということになります。音楽や姿勢で悲しみを表しつつ、すべてが悲しみを表現するのではなく、口元に逆の表情を忍ばせることで、見る側が潜在的に受け取る情動情報は複雑になると考えられます。そうした情動情報の提示を複雑にして、見る側の感情を揺さぶることが、今の能面を完成させた世阿弥の意図だったとしたら……。

能面がミステリアスに見える理由は、こうした情動の科学的観測によって、さらに裏付けられていくのではないでしょうか。

能の審美的理念とされる「幽玄」は、見えにくいところに艶やかなものを射すことであったと考えることができます。いっぽうで能面がキメラ的な複合表情を持つという知見は、モナリザのような西洋美術にみられるミステリアスな情動表出とも共通しています。「美」を司る文化的な要因は、その社会でくらす人々の心理学的な要因も考慮したものであることが、科学的な分析によってより明らかに示せたと考えられます。

従来、西洋美術を科学的に分析するという試みはなされてきましたが、本研究は日本の伝統芸能を科学的に分析するという道を拓くものであると考えます。

 

<参考図>

1. 作成画像例

(a)が初期画像であり,この画像を様々な表情に変化させた。(d)(e)は,参加者が任意で作成した「喜び」と「悲しみ」の表情である。(f)(g)は上向き能面の画像(b),下向き能面の画像(c)をそれぞれ,模倣したものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2. 上向き,下向き能面の各顔領域が表現する情動

「上向き」能面の表情において,眉と口は「悲しみ」の表情を作成する際に認められた特徴と共通しており,目は「喜び」の表情を作成する際に認められた特徴と共通点を持つことが示された。一方,「下向き」能面の表情において,眉と口は「喜び」,目は「悲しみ」の表情を作成する際に認められた特徴と共通点を持つことが示された。

 

 

 

 

 

 


3. 実験2で使用された合成画像全パターン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


<用語解説>

 

注1)キメラとは、ギリシャ神話に登場する伝説の生物「キマイラ」に由来し、生物学では複数の遺伝情報を持つ細胞からなる個体をさすが、ここでは「複数の情動状態がひとつこの個体で同時に提示されている状態」を指している。

 

注2FaceToolは、東京大学原島研究室が作成したソフトウェアで、眉,目,頬,口といった顔の領域の形を変化させ,様々な表情を作成することができる。顔の各領域を操作するコントローラーは,「眉・内側を上げる」「眉・外側を上げる」といった23項目から構成されており,人間の表情筋の動きによって表情の記述を可能にするシステムであるFACS(Facial Action Coding System, Ekman & Friesen, 1978)におけるAU(Action Unit)に対応して作成されたものである。

 

 

 

 

<論文名>

 

 “ The Mysterious Noh Mask: Contribution of Multiple Facial Parts to the Recognition of Emotional Expressions

 ( 日本語タイトル:ミステリアスな能面:情動表出認知には顔の様々なパーツが貢献する  )

 

Miyata, H., Nishimura, R., Okanoya, K., & Kawai, N. (2012). The mysterious Noh mask: Contribution of multiple facial parts to the recognition of emotional expression. PLoS ONE, 7(11), e50280. doi:10.1371/journal.pone.0050280